ナオ編・第8話
わるくないのに
夕方だった。
夕飯はもう終わっていた。
皿は片づけられて、
テーブルの上は、きれいだった。
リビングには、父とナオだけがいた。
父はソファに座って、新聞を広げていた。
ページをめくる音が、ときどきした。
ナオは、少し離れた椅子に座っていた。
スマホは見ていない。
テレビもついていない。
ただ、静かな時間が流れていた。
父が、新聞から目を上げずに言った。
「姉ちゃんさ、最近、成績がいいらしいな」
ナオは、うなずいた。
それだけで終わるはずの話だった。
終わってほしかった。
父は、少しだけ間をあけて、つづけた。
視線は新聞のまま、
でも一瞬だけ、ナオのほうを見た。
見たのに、目は合わなかった。
「比べるつもりじゃないけどな」
父の声は低かった。
怒ってはいない。
むしろ、気をつけて話しているみたいだった。
「ナオもさ……できる力はあるんだから」
そこで、父は言い直すように息をついた。
「もう少しだけ、頑張ってみないか」
ナオは、返事をしなかった。
「はい」でも「うん」でもなく、なにも。
言葉が出ないわけじゃない。
出そうとしたら、出せる。
でも、その言葉を出すと、
何かが決まってしまう気がした。
頑張ってない、と言われた気がした。
父はそう言っていない。
責めていない。
それなのに、
胸の中で、同じ音に聞こえた。
ナオは、自分の手を見た。
指先が、少しだけ冷たかった。
父は新聞を見たままだった。
言ったあと、なにも付け足さない。
「頑張れ」と言ったぶんだけ、黙っていた。
ナオは、ふいに、廊下のほうを見た。
姉の部屋がある方向だった。
ドアは閉まっている。
声もしない。
何も起きていない。
それなのに、そこに近づきたくない気がした。
姉がいるかどうかじゃない。
姉の「できている感じ」が、
そこに置いてあるみたいだった。
ナオは、息を吸った。
吐いた。
でも、空気が軽くならなかった。
すぐに泣くわけじゃなかった。
怒るわけでもない。
体は動く。
ただ、胸の奥だけが、
じわじわ苦しくなっていった。
父は、またページをめくった。
その音が、ふつうの音なのに、
遠くに聞こえた。
ナオは思った。
――いま、言い返したら。
――説明したら。
――「頑張ってる」って言ったら。
たぶん、もっと苦しくなる。
言葉を出した瞬間、
父の「正しさ」と、ナオの「つらさ」がぶつかって、
どっちも崩れる気がした。
ナオは、椅子から立った。
音を立てないように、ゆっくり。
父が、ちらっと見た。
でも、声は出さなかった。
ナオは上着をつかんだ。
玄関のほうへ歩いた。
靴をはいて、ドアノブに手をかけた。
「……ちょっと、外」
言ったかどうか、
ナオ自身もはっきりしなかった。
声は、うすかった。
ドアを開けて、外に出た。
そして、閉めた。
少し強く閉めてしまった。
ガチャ、と音がして、
家の中の空気が切れた気がした。
外は、暗くなりかけていた。
空はまだ黒くない。
でも、色が薄くなっていた。
ナオは歩いた。
速くもなく、遅くもなく。
ただ、足が前に出た。
どこへ行くかは決めていなかった。
決められるほど、頭が整理できていなかった。
気づくと、頬がぬれていた。
なみだだった。
驚くほどではない。
声も出ない。
ただ、静かに落ちてきた。
――わるくないのに。
ナオはそう思った。
何がわるいのか、まだ言えなかった。
父に殴られたわけじゃない。
怒鳴られたわけでもない。
言葉も、ちゃんと選ばれていた。
それなのに、なみだが出た。
止めようとすると、余計に出た。
ナオは、袖で目をぬぐった。
でも、また出た。
もう一度ぬぐった。
歩きながら、呼吸だけ整えようとした。
息を吸って、吐く。
吸って、吐く。
少しだけ、胸が落ち着いた。
ナオは立ち止まって、ふり返った。
家は暗い形になって、そこにあった。
そして、反対の方向を見た。
遠くに、教会の屋根が見えた。
灯りはついていないのに、
形だけが、やけにはっきり見えた。
行くとは決めていない。
ただ、見てしまった。
ナオは、もう一度だけ息を吸った。
なみだは、まだ頬に残っていた。
理由は、まだ言えない。
言える気もしない。
でも、何もなかったわけじゃない。
このまま家に戻ったら、
また同じ場所で止まる気がした。
ナオは、歩き出した。
夜が、少しずつ近づいていた。
理由が言えないときも、
何も起きていないわけではない。
なぜ涙が出たのかを、
思想章で考えます。

