ナオ編・第4話
聞きなさい
夕食の時間だった。
テーブルの上に、湯気が立っていた。
ナオは、少し背筋を伸ばしていた。
今日は、話したいことがあった。
「今日のテストさ」
ナオは、箸を持ったまま言った。
「前より、点よかった」
父は、顔を上げた。
「そうか」
その一言で、
ナオの胸が、少しだけ軽くなった。
「英語もな」
ナオは、続けた。
「今までより、できた」
話しながら、
ナオの中で、何かがほどけていった。
言えた。
伝えた。
それだけで、もう十分な気がした。
父が、少し考えてから聞いた。
「英語は、どんな問題だった?」
ナオは、答えようとした。
でも、頭の中が、止まった。
単語。
文。
テスト用紙。
どれも、うまくつながらなかった。
ナオは、視線をずらした。
テーブルの端が、目に入った。
スープの表面が、ゆれていた。
父が、言った。
「ナオ、聞いてたか?」
ナオは、うなずいた。
聞いていた。
たしかに。
でも、それだけでは足りなかった。
でも、
もう一度、考え直す余裕はなかった。
父は、少し間を置いて、続けた。
少しだけ、間があった。
「今、別のこと考えてたろ」
ナオは、言い返そうとした。
考えていなかったわけじゃない。
でも、
どこから話せばいいか、わからなかった。
「いや、あの……」
言葉が、途中で止まった。
父は、箸を置いた。
小さく息を吐いて、言った。
「……もういい。後でいい」
その一言で、
会話が切れた。
ナオは、うなずいたまま、
それ以上、話さなかった。
部屋に戻っても、
さっきの空気が、残っていた。
話せたはずなのに。
伝えたはずなのに。
でも、つながっていなかった。
何かが、噛み合っていなかった。
夜になって、
ナオは、家を出た。
理由は、はっきりしなかった。
気づいたら、足が向いていた。
教会だった。
教会の扉は、静かに開いた。
中は、いつもより暗く感じた。
でも、目が慣れると、
光が、思ったより奥まで届いていた。
ナオは、ゆっくり歩いた。
椅子の間を抜けて、奥へ。
そのとき、気配を感じた。
足元だった。
ベンチの影に、猫がいた。
青みがかったグレーの毛。
短く、密な毛並み。
丸い目が、こちらを見ている。
動かない。
鳴きもしない。
ただ、そこにいた。
ナオは、息を整えた。
見られている感じは、しなかった。
一緒にいる、という感じが近かった。
少し離れたところで、声がした。
「ここ、落ち着くよな」
コーキだった。
いつ来たのかは、わからない。
いつものように、そこにいた。
ナオは、軽くうなずいた。
それだけで、十分だった。
少しだけ話した。
うまく言えなかったところも、
そのままにした。
コーキは、
「……そうか」
とだけ言った。
しばらく、黙っていたあと、
コーキが言った。
「こっち、見えるところある」
ナオは、ついていった。
少し高い位置から、
教会の中が見えた。
光の入り方が、
いつもと違っていた。
天井が、遠く感じた。
音が、少なかった。
頭の中が、
一つずつ、静かになっていった。
コーキが、ぽつりと言った。
「……違って見えるな」
ナオは、何も答えなかった。
ただ、そこに立っていた。
屋根の上で、
猫が、動いた気がした。
ナオは、思った。
話すことと、
聞くことは、
同じじゃないのかもしれない。
今は、
それだけで、よかった。
話せたことと、
聞けていたことは、同じではないのかもしれない。
「聞いていたのに、聞いていないと言われる」ずれを、
思想章で考えます。

