【早くしなさい】急かされるほど止まってしまう心の内側〈ナオ編 第1話〉

ナオ編

ナオ編・第1話

早くしなさい

玄関は、少しせまかった。

朝のにおいがしていた。

姉は、もう靴をはいていた。

かかとを入れて、ドアに手をかける。

「行ってきます」

言い終わる前に、外へ出ていった。

ドアは、閉まらなかった。

冷たい空気が、玄関に流れ込んだ。

ナオは、玄関にしゃがんでいた。

靴は、はいている。

でも、立ち上がれなかった。

靴ひもを、見ていた。

白いスニーカー。左右の靴ひもの長さが少し違って見える。

右は、少し長い。

左は、短い。

結んだはずだった。

でも、ほどけている気がした。

ほどけていないかもしれない。

ナオは、ひもを指でつまんだ。

引っぱると、形がくずれそうだった。

直そうとして、止まった。

直すと、余計におかしくなる気がした。

直さないと、気持ちが落ち着かない気もした。

開いたままのドアの向こうで、
塀の上に、猫がいた。

青みがかったグレーの毛。

短くて、ぎゅっとつまった毛並み。

丸い目が、じっとこちらを見ていた。

ナオは、一瞬だけ息を止めた。

見られている、というより、
「見守られている」みたいに感じた。

後ろで、足音がした。

父が、立っていた。

少し待っている。

時計は見ていない。

でも、空気が変わった。

父は、少しだけ眉をしかめた。

「……早くして」

ナオは、返事をしなかった。

返事の言葉が、浮かばなかった。

まだ、できていないわけじゃない。

終わっていないだけだ。

父は、ため息をついた。

「遅い」

その言葉が、背中に当たった。

ナオは、ひもを見た。

どこが遅いのか、わからなかった。

気になっている。

それだけだった。

でも、その「それだけ」を、言葉にできない。

言おうとすると、
頭の中が、からっぽになる。

ナオは、手を止めた。

ひもを、結ばなかった。

立ち上がって、ドアに手をかけた。

「行ってきます」

言い方は、よくなかったと思う。

でも、ほかの言い方が、出てこなかった。

少し強く、引いた。

ドアが、閉まった。

その音で、
さっきまでの空気が、切れた気がした。

外に出ると、
塀の上の猫が、まだいた。

同じ場所で、動かない。

目だけが、こちらを追っている。

ナオは、靴ひもを一度見て、
そのまま歩き出した。

通学路で、ナオの隣をコーキが歩きながら話しかけている。

学校へ向かう道で、
声をかけられた。

「おはよう」

コーキだった。

ナオは、ちらっと見て、前を向いた。

足は、止めなかった。

「……なんか、機嫌悪い?」

ナオは、少しだけ歩く速さを落とした。

「遅いって、言われた」

それだけ言った。

それ以上は、うまく出てこなかった。

コーキは、すぐに聞き返さなかった。

ただ、となりを歩いた。

「何が?」

ナオは、考えた。

靴ひも。
玄関。
父の声。
塀の上の猫の目。

でも、どれも、うまくつながらなかった。

「わからない」

コーキは、少しだけうなずいた。

「それ、ある」

ナオは、顔を上げた。

「急がれるとさ、
“急ぐ”前に、止まることがあるんだよ」

「何を直せばいいか分からないまま急げって言われると、
頭のほうが止まる」

ナオは、黙ったまま歩いた。

「周りから見ると、
 サボってるみたいに見えるんだよな」

コーキは、少しだけ言葉を切った。

言いすぎないようにしているのが、わかった。

ナオは、ぼそっと言った。

「俺、別に……
 遅くしようとしてたわけじゃない」

コーキは、すぐに返した。

「うん。そうだろ」

その一言が、
変に軽くなくて、助かった。

ナオは、足元を見た。

ひもが、まだ長い。

「……靴ひも、気になってた」

コーキは、ちらっと見た。

「気になるやつ、あるよな」

ナオは、うなずいた。

それだけで、
少しだけ胸の中がほどけた。

通学路を並んで歩くナオとコーキ。少し離れた場所でルリが見ている。

コーキが言った。

「遅いって言われたとき、
 “何を直せばいいか”が見えないと、きついよな」

ナオは、歩きながら考えた。

遅い。

それは結果で、
理由は、別にあったのかもしれない。

玄関で、猫が見ていた。

責めていなかった。

急かしてもいなかった。

ただ、そこにいて、
ナオの「止まってる時間」も、
そのまま見ていた。

ナオは、ほんの少しだけ思った。

次に同じことが起きたら、
「今、気になってる」って、
言えるだろうか。

言えるかどうかは、わからない。

でも、
言えないまま飛び出すしかない、
それだけじゃない気がした。

靴ひもは、まだ長いままだった。

でも、
さっきよりは、歩き方が落ち着いていた。