大人編・第12話
「できた」
朝の空気は、少し冷えていた。
ケイイチロウは台所で湯を沸かしながら、時計を見る。
いつもより、少し早い。
廊下の奥から足音がする。
息子が、眠そうな顔で姿を現した。
「おはよう」
小さな声。目をこすりながら、カバンを肩にかける。
食卓に座り、黙って準備をする。
そのまま出ていくのかと思ったとき、ふと思い出したようにカバンを開けた。
「……これ」
出てきたのは、昨日の宿題。書きかけのノート。
「寝る前に、少しだけ進めた」
言い訳のようでもあり、報告のようでもある。
ケイイチロウはノートに目を落とす。
全部ではない。終わってもいない。
けれど、昨日よりは確実に増えている。
その増えた数行が、どれほどの時間と気力を使ったものか。
昨夜の息子の様子を思い返すと、簡単にほめることが難しかった。
「そうか」
それだけ言った。褒めもせず、責めもせず、意味づけも足さない。
息子は一瞬こちらを見て、小さくうなずいた。
「……行ってきます」
玄関の扉が閉まる音が響く。
もっと何か言えたのかもしれない。
ちゃんと見ていた、と伝えたほうがよかったのかもしれない。
だが、あのときは、それ以上の言葉が浮かばなかった。
そして今も、あの「そうか」が正しかったのかは分からない。
現在。事務所の机の上に、報告書が置かれている。
コーキが、少し気まずそうに立っていた。
「……途中なんですけど」
差し出された紙は、完璧には程遠い。
抜けもあり、整理もまだ途中だ。
ケイイチロウは、ゆっくりと目を通す。
途中であることは、分かる。
だが、前に見たときより、確かに進んでいる。
「わかった」
それだけ言って、受け取った。
コーキは一瞬驚き、すぐに力を抜いた。
「続き、やります」
その声は、昨日より軽い。
評価はしない。完成かどうかも、今は問わない。
差し出されたのは、結果ではなく、途中だ。
それを受け取ることが、続きを生む。
机の上には、まだ続きを待つ紙がある。
終わってはいない。けれど、確かにここまで来ている。
ケイイチロウは報告書を閉じた。
「続きを、待ってる」
そう言うと、コーキは小さく笑った。
急がなくていい。比べなくていい。
それぞれのペースで、それぞれの”できた”を持ってくる。
夜の事務所は、静かだった。
「できた」は、完成だけを指す言葉ではないのかもしれない。
途中を受け取る関係について、思想章で考えます。

