ナオ編・第12話
できた
夜だった。
家の中は、テレビの音もない。
リビングの明かりだけが、ついていた。
ナオは、自分の部屋にいた。
机の上に、ノートを広げた。
筆箱を開けた。
シャーペンを一本、出した。
やる気が、ないわけじゃない。
でも、始めるまでが、長い。
始めたのに、止まることもある。
ナオは、ポケットに手を入れた。
小さな紙が、指に当たった。
今日の朝、書いたメモだった。
「宿題」
その下に、教科名が一つ。
それだけ。
ナオは、それを見て、息を吐いた。
紙は、もう、くしゃくしゃだった。
でも、捨てなかった。
机に置いて、ノートを見た。
一行目を、目で追った。
次の瞬間、頭の中で、別のことが動き出しそうになる。
ナオは、シャーペンを持ったまま、手を止めた。
——いま、逃げるとこだ。
ナオは、自分でわかった。
シャーペンを、もう一度、紙に近づけた。
線が、出た。
短い線。
それでも、線だった。
そのまま、しばらく、書いた。
途中で止まった。
止まって、また書いた。
進んだり、戻ったりしながら。
ナオは、机から立たなかった。
どれくらい時間が過ぎたか、わからない。
時計を見て、驚いた。
「そんなに?」と思った。
でも、ノートの白いところは、さっきより減っていた。
ナオは、シャーペンを置いた。
やり切ったかは、わからない。
でも——
始めた。
戻ってきた。
逃げなかった。
それが、今日の「できた」だった。
小さいけど、なくならない「できた」だった。
リビングに戻ると、
父がソファに座っていた。
スマホを見ている。
新聞を読んでいるみたいに、顔はあまり動かない。
でも、ナオが入ってきたのは、たぶん、わかっている。
父は、何も言わなかった。
ナオも、何も言わなかった。
言う言葉が、まだ、見つからなかった。
ナオは、テーブルの近くの椅子に座った。
ポケットから、くしゃくしゃの紙が、はらりと落ちた。
ナオは、気づかなかった。
紙は、椅子の座面に、ちょこんと残った。
ナオは、立ち上がって、水を飲みに行った。
コップを置いたあと、ふと、外の空気が吸いたくなった。
玄関で、ナオは小さく言った。
「ちょっと、出てくる」
父は、スマホから少しだけ目を上げた。
何も言わなかったけれど、止めもしなかった。
外は、もう暗かった。
街灯の下を、ナオはゆっくり歩いた。
行き先は、特に決めていなかった。
コンビニの前まで来て、また、引き返した。
買うものは、なかった。
ただ、夜の空気が、ちょうどよかった。
小一時間くらい、たったころ。
姉が、リビングに入ってきた。
帰ってきたばかりの顔だった。
制服のまま、髪をまとめ直している。
姉は、テーブルのあたりを見て、 ふと、椅子の上に目を止めた。
そこに、くしゃくしゃの紙が、ちょこんと残っていた。
姉は、それをつまんで広げた。
紙の中身を、声に出して読まない。
ただ、目で見た。
「宿題」
教科名が一つ。
それだけ。
姉は、いったん、その紙を手の中で折り直した。
くしゃくしゃのまま、やさしく。
玄関の方で、音がした。
ナオが戻ってきた。
姉が、ナオを呼び止めた。
大げさじゃない声で。
責めるでもなく、詮索でもなく。
姉は、紙を差し出して、言った。
「えらいじゃん、それ」
それだけ。
ナオは、一瞬、止まった。
紙を受け取った。
姉の顔を見た。
姉は、それ以上、説明しなかった。
ナオも、説明しなかった。
でも、胸の中が、じわっとあたたかくなった。
ナオは、小さくうなずいて、
くしゃくしゃの紙を、ポケットに戻した。
父は、何も言わなかった。
それでも、スマホのスクロールが、一度止まった気がした。
翌日。
学校の近くの教会だった。
ナオは、まだ少しだけ、昨日の余韻を持っていた。
ポケットの中の紙が、そこにあるだけで、落ち着く。
教会の中は、静かだった。
椅子の上に、猫がいた。
青みがかったグレーの毛。
短くて、ぎゅっとつまった毛並み。
ルリだった。
ナオは、声を出さずに、息だけで笑った。
ルリは、こちらを一度見て、また目を細めた。
見守る、というより、そこにいるだけ。
それが、逆にありがたかった。
しばらくして、コーキが入ってきた。
ナオを見つけて、近づいてくる。
「おはよう」
ナオは、少しだけ早口で言った。
「昨日、さ……」
それから、ポケットに手を入れて、
くしゃくしゃの紙を出した。
見せるほどでもない。
でも、見せたかった。
「姉に、これ……『えらいじゃん』って言われた」
言い終わってから、ナオは少し照れた。
コーキは、大げさに笑わなかった。
ただ、うなずいた。
「うん」
その「うん」が、ちょうどよかった。
ナオは、逆に少し不思議に思った。
——なんで、この人たち、いつも近くにいるんだろう。
ナオは、ルリを見た。
ルリは、椅子の上で、静かにまばたきをした。
ナオは、まだ答えを持っていないまま、
紙をポケットにしまった。
外へ出ると、空が高かった。
ナオは歩き出した。
昨日より、少しだけ、足取りが安定していた。
「できた」の形は、まだ小さい。
でも、なくなっていなかった。
できたは、
終わったことだけじゃない。
ナオの中で形になった「できた」を、
思想章で考えます。

