【ぼくのペース】遅いのではなく違うだけ〈大人編 第11話〉

大人編

大人編・第11話

「ぼくのペース」

夕方の事務所には、まだ外の明るさが残っていた。

昼とも夜ともつかない、曖昧な時間。

机の上には報告書。

コーキは椅子に浅く腰かけ、紙を見つめている。

指先でペンを回し、止まり、また回す。

書いているようで、進んでいない。

「……まだ、かかりそうか」

低く問うと、コーキは小さく肩をすくめた。

「はい。考えてるところです」

嘘ではない。

だが、進んでいるとも言い切れない。

ケイイチロウは、それ以上言わなかった。

急かす理由が、今は見つからない。

その光景が、ふと昔と重なった。

机に向かう背中を、何度も見ていた。

書き写すだけの宿題。見本も答えもある。

「書くだけだろ」

そう言ったとき、自分の声に苛立ちが混じっていた。

最初の数行は進む。だが、すぐに止まる。

紙を見つめたまま、動かない。

声をかけると、また書く。そして、また止まる。

それを、何度も繰り返した。

隣にいれば進むはずだ。見ていれば動くはずだ。

そう思っていた。だが、進まない。

「……少し、席を外すか」

立ち上がり、戻ってきても、紙の上はほとんど変わらない。

書いていないわけではない。やる気がないようにも見えない。

ただ、進まない。

夜は深まり、時計の音が大きくなる。

「今日は、ここまででいい」

そう言ったとき、見せた表情が、安心だったのか、諦めだったのかは分からない。

なぜ書けないのか。なぜ、これほど時間がかかるのか。

答えは出ないまま、夜は終わった。

しかし、次の朝、机の上を見て気づいた。

昨夜の続きが、少し先まで進んでいた。

あの子は、夜中に一人でやっていたのだ。

急かされない時間に、自分のペースで。

意識が、事務所へ戻る。

コーキは、同じように報告書を見つめている。

ペンは回り、止まり、また回る。

「……今日は、ここまででいい」

そう言うと、コーキは顔を上げた。

「すみません。まだ途中で」

「わかった」

それだけだった。評価もしない。理由も聞かない。

机の上には、続きを待つ紙が残っている。

コーキは報告書をそっと閉じた。

ケイイチロウは、照明を少し落とす。

遅いのではなく、違うだけかもしれない。

そのペースの中に、見えていない続きがある。

終わらなかった一日でも、続きは、まだ残っている。

夜の事務所は静かだった。

終わらなかったことは、止まったことと同じではない。
「完了」の見え方について、思想章で考えます。