大人編・第9話
「ひとりにして」
事務所を出たとき、空はもう暗くなり始めていた。
ケイイチロウは、無意識のうちに足を止めた。
――そういえば。
胸の奥に、小さな引っかかりが浮かぶ。
考えなくてもいいはずの記憶が、勝手に立ち上がってきた。
あのときも、こうだった。
理由ははっきりしないまま、ただ焦って、外を探し回った夜。
「……あそこだったな」
口に出してから、少し驚く。
探す場所を“思い出した”というより、体のほうが先に覚えていたような感覚だった。
ケイイチロウは、街の灯りの中を歩き出す。
急いでいるつもりはない。
だが、足取りは自然と早くなっていた。
夜の街は、思ったよりも静かだった。
人通りの少ない道を曲がったとき、視界の端に小さな影が横切った。
猫だ。
灰色がかった毛並み。
見覚えがあるような、ないような。
猫は一度だけ立ち止まり、こちらを振り返る。
鳴きもせず、ただ、見ている。
「……」
声をかける理由はない。
それでも、ケイイチロウは自然と足の向きを変えた。
猫は先を行き、一定の距離を保ったまま夜道を進んでいく。
導かれている、というほど大げさなものではない。
ただ、「そちらでいい」と示されているような気がした。
やがて、視界が開ける。
小さな広場の向こうに、教会の建物が見えた。
灯りが、ついている。
扉の前で、ケイイチロウは一度立ち止まった。
なぜここだと思ったのか。説明できる理由はない。
けれど、胸の奥のざわめきが、少しだけ静かになっている。
扉を押すと、古い木の音が小さく響いた。
中は、あたたかい空気だった。
話し声がする。聞き覚えのある声だった。
奥の椅子に、息子が座っている。
向かいには、シスターらしき女性。
二人は、何かを楽しそうに話していた。
深刻な様子はない。
笑っているわけでもないが、落ち着いた表情だった。
シスターが、穏やかに言う。
「静かな場所、必要なときあるものね」
息子は小さくうなずく。
「家にいるの、なんか……ちょっとだけ、きつかった」
声は小さいが、はっきりしている。
「怒られたから?」
シスターは、問い詰めない。
息子は少し考え、首を振った。
「怒られた、っていうか……違う。なんか、わかんないけど」
それ以上は言葉にならない。
シスターは、ただうなずいた。
「わからなくても、いいのよ」
その瞬間、シスターの視線がこちらへ向いた。
ケイイチロウは、そこで初めて自分が息を止めていたことに気づく。
泣いていると思っていた。
取り乱しているかもしれないとも。
だが、目の前の姿は違っていた。
ただ、そこにいる。
シスターが小さく言う。
「迎えが来ましたよ」
その言葉に、息子は顔を上げた。
一瞬、驚いたように目を見開き――それから、慎重に立ち上がる。
怒られるかどうかを測るような距離。
ケイイチロウは、言葉を探した。
謝るべきなのか。理由を聞くべきなのか。
だが、どれも今ではない気がした。
「……帰ろう」
それだけ言う。
息子は小さくうなずき、近づいてきた。
外に出ると、夜の空気がひんやりと肌に触れた。
並んで歩き出す。
間に、沈黙がある。
けれど、重くはない。
息子が、ぽつりと言った。
「……さっきさ」
それだけで、言葉が止まる。
ケイイチロウは、続きを待った。
促さない。
しばらくして、息子は首を振った。
「なんでもない」
それでいい、と思った。
話さない選択も、今日は尊重されていい。
夜は、まだ続いている。
けれど、さっきまでとは違う夜だった。
――そして、その夜の“続きを”、ケイイチロウは長いあいだ正確には思い出せなかった。
ただ、空気だけが残った。
並んで歩いた、あの感覚だけが。
ケイイチロウが思い出した場所は教会だった。
そして今夜も、同じ扉の前にいる。
扉を押すと、古い木の音が小さく響いた。
中は、にぎやかな声で溢れていた。
奥の一角で、子どもたちが集まっている。
笑い声が、少し弾んでいる。
その輪のそばに、見覚えのある青年がいた。
コーキだった。
子どもたちの話を聞きながら、時々相づちを打ち、時々、少し困ったように笑っている。
その足元で、灰色の猫が子どもたちに囲まれていた。
抱き上げられ、撫でられ、逃げ場を失ったまま。
それでもどこか、満更でもなさそうな顔をしている。
ルリだ。
ケイイチロウは、思わず息をついた。
「……なるほどな」
なぜ、ここだったのか。
なぜ、あの夜、息子はここに来たのか。
すべてを説明できる理由は、ない。
けれど――
人がいて、少し安心できて、ひとりでいなくていい場所。
そんな場所が、たまたまここだったのかもしれない。
コーキがこちらに気づき、軽く会釈をする。
それ以上、何も言わない。
ケイイチロウも、何も聞かない。
必要なのは、説明ではなかった。
外に出ると、夜の空気がやわらいでいる。
並んで歩く。行き先は、同じだ。
家の明かりが見えてくる。
帰る、というより、戻る、という感覚に近かった。
離れたことは、拒絶だったのか。
――そうではないのかもしれない。
近づきすぎて苦しくなった心が、いったん整うまでの距離。
壊すためではなく、守るための間。
並んで帰れたなら、その夜は失敗ではない。
答えは、まだない。
理由も、全部はわからない。
それでも、今は同じ高さで歩いている。
それだけで、十分だった。
離れることは、
拒絶ではないのかもしれない。
距離が必要になる瞬間について、
思想章で考えます。
