【聞きなさい】言葉が届かないとき心は何をしているか〈大人編 第4話〉

大人編

大人編・第4話

「聞きなさい」

夜の事務所は、前夜よりも静かだった。
机の上には、昼間のうちに整えた書類がそのまま残っている。

整っているはずの紙の束を前にして、
ケイイチロウはしばらく動かなかった。

整っていれば安心できるはずなのに。

スマートフォンが、短く震える。

学校からの通知だった。

「宿題が提出されていません」

読み返すまでもない。
意味は一瞬で頭に入る。

昨日、あれだけ確認した。
やった、と言われた。
最後までやれ、と言った。
それでも、出ていない。

「……そうか」

驚きはなかった。
むしろ、どこかで想定していたような感覚がある。

やったと言っていた。
だが、結果は出ていない。

それだけのことだ、と頭では整理できてしまう。

——確認すれば防げるはずだった。
そう信じてきた。
これまでも、そうしてきた。

その思いが、静かに胸の奥で広がる。

ケイイチロウは、椅子から立ち上がった。


家に戻ると、リビングには灯りがついていた。

息子はソファに座り、スマートフォンを手にしている。

画面を見ているのか、見ていないのか、
指だけが機械的に動いている。

声をかけても、すぐには顔が上がらない。
そこにいるのに、どこか遠い。

「学校から連絡が来た」

息子は顔を上げた。
反応は遅くない。
だが、わずかに身構える空気がある。

「宿題、出てないって」

事実を伝えただけだ。
責めたつもりはない。
確認の一文だ。

「……ちゃんとやった」

声は小さい。
視線はテーブルの端に落ちている。

「やった、って言うけど」

ケイイチロウは続ける。

「出てないって言われてる。どこにある?」

息子は黙る。
考えているのか。
言葉を探しているのか。
それとも——。

「……やった」

繰り返す。
言葉は増えない。

ケイイチロウは、違和感を覚えながらも、自分に言い聞かせる。

——聞いている。
——会話は成立している。

質問した。
答えは返ってきた。
ならば、次は事実の確認だ。

「昨日、確認したよな」

息子の肩が、わずかに固くなる。

「最後、残ってた」

まばたきが増える。
視線が合わない。

「だから言っただろ。
 ちゃんと最後までやらないと意味がないって」

その言葉が落ちた瞬間、空気が変わる。

息子の表情が止まる。
何かを言いかけて、閉じる。

沈黙が長くなる。

ケイイチロウの中で、焦りが膨らむ。

——また止まるのか。

「……聞いてるのか?」

問いかけたつもりだった。
確認の延長だ。

だが、息子の背中がさらに丸くなる。

「ちゃんと聞きなさい」

声が少し強くなる。
止めようと思えば止められた。
それでも、止めなかった。

「先のことを、少しは考えないといけないだろ」

言いながら、気づいている。
“先”が何を指しているのか、自分でも曖昧だ。

学校のことか。
将来のことか。
社会に出るということか。

どれも今の息子には遠い。
それでも、言わなければならない気がした。

息子は黙ったまま、うつむいている。
泣いてはいない。

けれど、言葉が入っていない感覚だけが、はっきりと伝わる。

ケイイチロウは混乱する。
何度も確認した。
話しかけた。
返事もあった。

それなのに——
何も届いていない。

「……話を聞きなさい」

最後に、そう言ってしまった。

その瞬間、
何かが決定的にずれた気がした。

息子は、動かない。

言葉が落ちる音だけが、リビングに残る。

ケイイチロウは、立ったまま動けなかった。

叱ったわけではない。
怒鳴ったわけでもない。

それなのに、
どこかが壊れた音がした。


夜の事務所に、意識が戻る。

机の上のスマートフォンは、まだ光っている。

「報告書が届いていません」

文字は変わらない。

コーキが向かいの席で、静かに資料を整えている。

途中の行も、空欄も、そのままだ。

ケイイチロウは、返信画面を開いたまま、指を止める。

——確認すれば防げる。
そう思ってきた。

だが、本当に足りなかったのは、確認だったのか。

「話を聞きなさい」
あの言葉は、
相手に向けたものだったのだろうか。

それとも——
結果が出ないことに焦る、自分自身に向けたものだったのか。

扉の向こうで足音がする。
コーキが戻ってきたのだとわかる。

その足元を、静かに横切る影がある。

青みがかった灰色の猫が、事務所の奥へと歩いていく。

誰も何も言わない。

だが、
見られている気がした。

言葉ではなく、
立ち位置を。

ケイイチロウは、スマートフォンを伏せなかった。
返信も、まだ打たない。

今夜は、
「聞いていない」と決める前に、
自分が何を聞こうとしていたのかを、
もう一度だけ考えてみることにした。