ナオ編・第9話
ひとりにして
教会の前まで来たとき、
ナオは足を止めた。
中から音はしない。
扉は閉まっている。
でも、ここは静かすぎて、
逆に入りやすかった。
ナオは扉に手をかけた。
押すと、少し重くて、
ゆっくり開いた。
きい、と小さな音がした。
中はひんやりしていた。
明かりは弱い。
でも、暗すぎない。
床に落ちた光が、
細く伸びていた。
ナオは、深く息をした。
胸の中のざわざわが、
少しだけ薄くなる気がした。
奥のほうで、気配がした。
足音ではない。
人の気配でもない。
見上げると、
長い椅子の背に、猫がいた。
青みがかったグレーの毛。
短くて、密で、影みたいに落ち着いた色。
ルリだった。
ナオは、声を出さなかった。
名前を呼ぶ必要もなかった。
ただ、そこにいるのが自然だった。
ルリは動かない。
目だけが、ナオを見る。
追い立てない。
近づいてもこない。
――ひとりにしてほしい。
でも、完全にひとりだと、つらい。
その間の場所が、うまく見つからなかった。
ナオは、そんなことを思って、
自分で驚いた。
足音が、もう一つ増えた。
入口のほうからだった。
「……ナオ?」
声は小さかった。
聞き覚えがある。
コーキが、扉のそばに立っていた。
手はポケットに入れたまま。
視線は強くない。
追いかけてきた、というより――
たまたま見つけた、みたいな顔だった。
ナオは、反射で体が固くなった。
来ないでほしい、と思った。
でも、嫌ではなかった。
コーキは、距離を詰めなかった。
一歩、止まったまま言った。
「……入って、いい?」
ナオは、少しだけうなずいた。
それだけで、コーキはそれ以上聞かなかった。
コーキは、ルリを見て、軽く息をついた。
「ここにいたか」
ルリは、まばたきを一度しただけだった。
ナオは、椅子の近くに立ったまま、
どこにも座らなかった。
コーキも座らなかった。
ただ、同じ空間にいた。
しばらくして、コーキが言った。
「家、出てきた?」
ナオは、うなずいた。
言葉は、まだ出なかった。
コーキは、それ以上聞かなかった。
代わりに、別のことを言った。
「さっきさ、顔が……きつそうだった」
ナオは、口を開いた。
でも、言葉にならなかった。
――何がきついのか。
――何が嫌だったのか。
――どうして泣いたのか。
どれも、説明しようとすると、
胸の奥がまた苦しくなった。
ナオは、やっと言った。
「……近いと、無理」
コーキは、うなずいた。
「うん」
ナオは続けた。
「嫌いとかじゃない。
でも……無理」
コーキは、少しだけ言葉を選ぶ顔をした。
それから、短く言った。
「それ、ある」
ナオは、肩の力が少し抜けた。
わかってもらえた、とは違う。
でも、否定されなかった。
コーキが言った。
「近いと苦しいとき、
逃げるの、悪くない」
ナオは、目を伏せた。
「……でも、勝手に出てきた」
コーキは、ルリを見た。
ルリは動かない。
「勝手っていうかさ」
コーキは言い直した。
「今、話すより、先に離れたほうがいいとき、ある」
ナオは、少し考えた。
それは、今日の自分だった。
コーキが、扉のほうを見た。
「ここ、落ち着くけど……
外のほうが呼吸しやすいときもある」
ナオは、うなずいた。
「……外、行く」
コーキは、先に歩き出さなかった。
ナオの横につくでもない。
半歩うしろに、ついてくる距離だった。
ルリは、静かに椅子から降りた。
足音がしないみたいに、ついてくる。
教会を出ると、夜が深くなっていた。
空は黒くて、
街の灯りが下に散っていた。
少し歩くと、高台に出た。
街が見えた。
小さな光がいくつも並んで、
遠くまで続いていた。
ナオは、柵の前で立ち止まった。
ここなら、話さなくてもいい気がした。
泣いても、誰にも見られない気がした。
でも、誰かがいることは、わかっていた。
コーキは、となりに立たなかった。
少し離れて、同じ景色を見た。
ナオは、やっと言った。
「……頑張れって言われた」
コーキは、すぐに返さなかった。
うなずくだけだった。
ナオは続けた。
「頑張ってないって、言われたみたいで」
言ってから、自分で首を振った。
「言われてないけど」
コーキは、静かに言った。
「言われてなくても、そう聞こえるとき、ある」
ナオは、息を吐いた。
胸の奥が、少し軽くなった。
ナオは、景色を見ながら考えた。
ひとりにしてほしい。
でも、完全にひとりは、つらい。
その間の距離が、ほしかった。
コーキは、余計なことは言わなかった。
ただ、そこにいた。
ルリは、少し高い場所にのぼって、
同じ街を見ていた。
ナオは、ほんの少しだけ思った。
次は、家を出る前に――
「今、近いと無理」って、言えるだろうか。
言えるかどうかは、わからない。
でも、今日は、
飛び出すしかない夜じゃなかった。
街の灯りは、静かに光っていた。
距離は、拒絶とは限らない。
ひとりになりたい気持ちの正体を、
思想章で考えます。
