大人編・第2話
「ちゃんとしなさい」
夜の事務所は、昼間とは違う静けさを持っていた。
外の商店街はもう閉まり、遠くで車の音がたまに聞こえるだけだ。
机の上のスタンドライトが、書類の端を照らしている。
ケイイチロウは、コーキから受け取った報告書に目を通していた。
内容は整理されている。
必要な点は押さえられていて、無駄もない。
ページをめくったところで、ふと手が止まった。
最後の欄が、途中で空いていた。
書き忘れだろうか。
それとも、まだ途中なのか。
「ここ、ちゃんと最後まで書いてくれ」
言葉が、喉の奥まで来た。
だが、口には出なかった。
視線を紙の上に戻す。
「ちゃんと」
その言葉だけが、頭の中に残った。
昔から、よく使ってきた言葉だった。
できていないとき。
足りないとき。
それ以上説明しなくても通じると思っていた言葉。
便利な言葉でもあった。
基準を示さずに、基準を求められる言葉。
記憶が、ゆっくりと過去に沈んでいく。
あの夜も、同じように確認した。
「宿題、できた」と言われて、
念のために見てみただけだった。
最後の数問が、手つかずのまま残っていた。
「ちゃんと最後までやらないと意味がないだろ」
迷いはなかった。
正しいことを言っている、そう思っていた。
途中までやったことより、
終わっていないことのほうが、目に入っていた。
その言葉を口にした瞬間、
息子の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
何か言い返してくると思った。
あるいは、続きをやると思った。
だが、そうはならなかった。
机の上の紙には、もう手が伸びなかった。
動かなくなった背中を見ながら、
「なぜ止まるんだ」と思った記憶がある。
やればいいだけのことなのに、と。
今なら、少し違う見方ができる。
あのとき自分は、
“できていない部分”だけで、
その夜を判断していた。
途中まで進んでいたことも、
取り組もうとしていた時間も、
評価には含めていなかった。
「ちゃんと」という言葉は、
次に何をすればいいかを示してはいなかった。
ただ、
“足りない今”だけを確定させる言葉だった。
息子の中で、
「今の自分はだめだ」という変換が起きていたとしても、
当時の自分には見えていなかった。
事務所の静けさが、現在に戻してくる。
報告書は、まだ途中で止まっている。
だが、全体としては、確実に前に進んでいる。
今は、まだ続きがある。
そう思える。
「ちゃんと」と言わなくても、
続きが書かれることを、知っているからだ。
コーキは、何も言わず、ただそこにいる。
聞き役のまま、視線を落としている。
ケイイチロウは、ペンを手に取った。
だが、訂正はしなかった。
報告書を閉じずに、
机の上にそのまま置いた。
決める前に、待つ。
それだけは、できる。
「ちゃんとしなさい」
あの言葉は、
何を期待していたのだろうか。
そして、何を消してしまったのだろうか。
答えは、まだ出ていない。
だが、
“途中であること”を否定しない夜を
選ぶことはできる。
この言葉を、もう一度ゆっくり
考えてみる。
この物語の奥にある問いを、
思想章で静かに続けます。

