ナオ編・第7話
集中できない
教室は、いつもよりにぎやかだった。
机が後ろに寄せられて、床には大きな紙が広げられている。
文化祭の準備だった。
クラスの出し物は、演劇。
ナオは、大道具係になっていた。
背景の絵を描く役だった。
筆を持つと、手が迷わなかった。
下書きの線をなぞって、色をのせる。
遠くから見て、また近づいて、少し直す。
思った通りに、形ができていった。
「いいじゃん、それ」
後ろから声がした。
ナオは、少しだけうなずいた。
悪くない。
むしろ、うまくいっている。
時間のことは、考えていなかった。
色を重ねる。
影を足す。
気づくと、周りの音が遠くなっていた。
「そろそろ帰る時間だよ」
誰かが言った。
ナオは、聞こえていた。
でも、筆は止まらなかった。
止めるきっかけが、つかめなかった。
あと少し。
ここだけ。
そのとき、机が動く音がした。
紙を丸める音。
ガムテープをはがす音。
ナオは、筆を持ったまま、立ち上がれなかった。
「……帰ろうか」
ため息まじりの声が、近くで聞こえた。
別の声が続いた。
「片付け、手伝って」
ナオは、紙を見た。
まだ、終わっていないところがあった。
でも、もう帰る時間だった。
筆を置こうとして、止まった。
結局、そのまま立ち尽くした。
気づいたときには、
教室の床は、ほとんど元に戻っていた。
ナオは、最後に筆を置いた。
少し遅れて、教室を出た。
胸の奥に、ひっかかるものが残っていた。
放課後の公園は、静かだった。
ブランコが、ゆっくり揺れていた。
ナオは、そこに座った。
靴先で、地面をける。
近くのベンチに、猫がいた。
青みがかったグレーの毛。
動かずに、こちらを見ている。
「ルリだな」
声がして、振り向いた。
コーキが立っていた。
「どうした?」
ナオは、しばらく黙っていた。
ブランコが、前に出て、戻る。
「……片付け、できなかった」
それだけ言った。
コーキは、すぐには聞き返さなかった。
となりのブランコに座る。
「描いてた?」
ナオは、うなずいた。
「うまく、いってた」
「そっか」
少し間があった。
「止められなかった?」
ナオは、またうなずいた。
「やめようとは、思った。
でも……」
言葉が、続かなかった。
コーキが言った。
「集中してるときってさ、
切り替え、むずいよな」
ナオは、ブランコの鎖を握った。
「サボってたわけじゃないんだけど」
「うん」
その返事は、短かったけれど、軽くなかった。
猫が、しっぽだけ動かした。
まだ、そこにいた。
「片付け、手伝えばよかったかなって」
ナオが言うと、コーキは少し考えた。
「たぶんさ、
できなかったっていうより、
気づいたときには、遅かったんだと思う」
ナオは、ブランコを、少し強くこいだ。
前に出て、
空に近づいて、
また戻る。
「……そうかも」
ブランコから、地面に飛び降りた。
着地は、少し不安定だったけれど、倒れなかった。
「じゃ、帰る」
ナオが言うと、コーキはうなずいた。
「またな」
公園を出るとき、ナオは一度だけ振り返った。
猫は、まだベンチにいた。
責める目ではなかった。
急かす目でもなかった。
ただ、そこにいて、
ナオの止まっていた時間を、見ていた。
ナオは、家に向かって歩き出した。
さっきより、少しだけ、歩幅がそろっていた。
止められない時間は、
集中していない時間とは限らない。
ナオの中で起きていた切り替えの難しさを、
思想章で考えます。

