大人編・第10話
「がんばれ」
夜の事務所に、仕事の余韻が残っていた。
机のスタンドライトだけが、まだ点いている。
ケイイチロウは、椅子に腰かけたままのコーキに目を向けた。
帰るには、少し遅い時間だ。
「今日は大変だったな。よく頑張ったじゃないか」
一日の終わりに、自然と口をついた労いだった。
コーキは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「……まあ、そうですね」
軽い調子。冗談のようにも聞こえる。
だが、その笑顔に、わずかな引っかかりが残った。
口元は上がっているのに、目が合わない。
言葉が、どこか手前で止まっている。
――違うな。
励ましたはずなのに、手応えがない。
胸の奥に、わずかな空振りが残る。
その表情が、ふと、過去の誰かと重なった。
同じように笑い、同じように、何も言わなかった背中。
意識が、自然と昔へ引き戻される。
高校受験の時期だった。
成績は悪くない。
努力すれば、もっと上を狙える。
そう信じて、進学校を勧めていた。
「がんばれば、合格できるだろ」
能力があるのだから、上を目指してほしい。
その思いに疑いはなかった。
だがある日、学校から連絡が入る。
受験先の書類が、提出されていないという。
理由を聞くと、返ってきたのは曖昧な答えだった。
無理かもしれない。
自信がない。
それでも、すぐには受け止められなかった。
「大丈夫だ。がんばれば、いける」
その言葉は、正しいと信じていた。
けれど、そのときの表情は、笑っているのに、どこか遠い。
沈黙が落ちたあと、ケイイチロウは問いを変えた。
「……どこに行きたい」
それは、励ます言葉ではなく、主語を返す問いだった。
何度も聞いたはずの問い。
だが、その日は違った。
しばらくして、初めて本人の言葉で答えが返る。
遠くの専門高校。下宿になる進路。
戸惑いはあった。
直前の変更も、すぐには理解できなかった。
だが、これ以上押すよりも、
一度距離を取るほうがいい。
そう判断した。
認めたというより、保留に近い決断だった。
意識が、現在へ戻る。
同じ「がんばれ」なのに、
なぜ、あのときは押しつけになり、
今はただの言葉になったのか。
理由は、まだ整理できない。
けれど、立ち位置が違っていたのだと、うすく感じていた。
ケイイチロウは、それ以上何も言わなかった。
励ましも、評価も、付け加えない。
ただ、うなずきながら、コーキの話を聞く。
途中で遮らない。
結論を急がない。
しばらくして、コーキがぽつりと言った。
「……明日、やれるところからやります」
その声は落ち着いていた。
無理をしている感じも、投げやりな様子もない。
今の自分のペースで、前を向いている。
ケイイチロウは、静かにうなずいた。
それで十分だと思えた。
夜の事務所は、まだ静かだ。
けれど、さっきまでとは、わずかに空気が違う。
言葉は同じでも、
意味は、立つ位置で変わる。
そのことを、ようやく実感しながら。
「がんばれ」は、
押す言葉にも、委ねる言葉にもなる。
励ましの立ち位置について、
思想章で考えます。
