【集中できない】怠けではなく容量オーバーのサイン〈大人編 第7話〉

大人編

大人編・第7話

「集中できない」

夕方の事務所には、商店街の気配がまだ少しだけ残っていた。
シャッターの閉まる音。遠くで子どもが笑う声。
乾いた風が、窓の隙間を通り抜ける。

コーキが戻ってきたのは、ぎりぎりの時間だった。

ドアを開けるなり、顔が明るい。

「所長、今日さ、ちょっと面白いのがさ――」

話は止まらなかった。
調査の経緯。途中で起きた小さな行き違い。相手の反応。街の空気。

報告というより、今日見てきた景色を、そのまま机の上に広げるような話し方だった。

ケイイチロウは、うなずきながら聞く。
言葉には熱があった。
目も、生きていた。

ただ――このままだと、報告書が残る。

「……それ、面白いな」

一拍置いて、続ける。
「書面も頼む。今日のうちに」

コーキは一瞬、口を閉じた。

それから少しだけ渋い顔をして、机に向かう。
椅子を引き、紙を広げ、ペンを取る。

――ここまでは、いつも通りだ。

だが、ペン先は紙に触れない。

指先で、くるり、と回る。
止まって、また回る。

紙を見ている。
文字も読んでいる。

それなのに、最初の一行が出てこない。

ケイイチロウは、声をかけようとした。

「早く」でもなく、
「ちゃんと」でもなく、
別の言葉を探す。

だが、その“探している間”に、別の光景が浮かんだ。


授業参観の日の教室。

窓から入る光が白かったのを覚えている。

息子は前から二列目、窓側。

社会の時間は、よく集中していた。
先生の問いに、ノートの端に小さくメモを取りながら聞いている。
ページをめくるタイミングも迷いがない。

「……やればできるじゃないか」

内心でそう思った。
安心に近い感覚だった。

自分の指導は、間違っていない――そう思わせてくれる光景だった。

だが、次の時間。

数学になった瞬間、空気が変わった。

板書が始まって、数分もしないうちに、手が止まる。

ノートは開いている。
教科書も開いている。
視線も黒板に向いている。

けれど――鉛筆は動かない。

代わりに、指先が鉛筆を回し始めた。

くるり。
止まって、くるり。

怠けているように見えた。
ふざけているようにも見えた。

“やる気がない”という結論に近づくのは、簡単だった。

後ろから声をかけたくなった。
授業が終わった瞬間でもいい。

「集中しろ」
「ちゃんと聞け」
「ペンを回すな」

いくらでも浮かぶ。

けれど、奇妙なことに――
鉛筆を回しながらも、黒板を見続けていた。

眠っていない。
よそ見もしていない。

ただ、“前に進まない”という状態だった。

授業が終わり、廊下に出たとき、担任が軽く言った。

「社会はよく入ってましたね。数学は、少し固まることがあります」

固まる。

“わからない”ではなく、固まる。

その言い方が、妙に残った。


事務所に戻る。

机の上で、同じ音がしている。

くるり。
止まって、くるり。

年齢も、場所も違うのに、動きだけが同じだった。

やる気がない――だけでは説明がつかない気がした。

むしろ、やろうとしているからこそ、止まる日があるのではないか。

声をかければ、動くかもしれない。
だが、声をかけることで、さらに固まることもある。

それも、経験として知ってしまっている。

ケイイチロウは、椅子に深く座り直した。
書類の束を整え、コーキの机のほうは見ないようにする。

見れば、言いたくなる。
言えば、急かしてしまう。

しばらくして、紙の上に小さな音が落ちた。
ペン先が触れる音だ。

コーキが、最初の一行を書いた。

文字は少し歪んでいたが、進み始めている。

完成させるかどうかは、今日は問題ではない。
止めなかったことが、今は大事だった。

コーキは書きながら、小さくつぶやいた。

「……さっきまで、頭の中では全部並んでたのに。紙に出そうとすると、急に真っ白になるんだよな」

ケイイチロウは返事をしなかった。
返事をすると、形が決まってしまう気がした。

ただ、思う。

あの日の息子も、
黒板の前で、同じように“真っ白”になっていたのかもしれない。

鉛筆を回しながら、必死に追いつこうとしていたのかもしれない。

そして自分は――
その“追いつこうとしている時間”を、待てなかった。

事務所の外は、もう暗い。
商店街の灯りが、一つ、また一つ消えていく。

コーキのペンは、まだ遅い。
けれど、進んでいる。

ケイイチロウは、待つことを選びながら、
心の中に小さな問いを残した。

集中できない日の秘密は、
本人の中で起きているのに、
外からはいつも“怠慢”に見えてしまう。

そのズレを、どうすれば埋められるのか。

答えは、まだ出ていない。

ただ――
急がせなかった今日だけは、
昨日より少し違っていた。