大人編・第1話
「早くしなさい」
その言葉は、必要だったのか。答えが出ないまま、今日も仕事が始まる。
事務所は、朝から静かだった。
古いビルの一室で、時計の音だけがはっきりと聞こえる。
ケイイチロウは、机の上に置いたスマートフォンを一度だけ見た。
画面の端に、未読の表示が残っている。
すぐに返せない内容だということだけは、わかっていた。
画面を伏せる。
それだけで、胸の奥に小さな重さが残った。
玄関、という場所がある。
家の中と外の境目で、時間が一番せわしなくなる場所だ。
靴がそろっていて、ドアが近くて、出なければならない理由だけが先に並ぶ。
「急げ」「間に合わない」「遅れる」
そういう言葉が、自然に浮かぶ。
あのときも、そうだった。
玄関に立って、腕時計を見て、考えるより先に、口が動いた。
「早くしなさい」
それが、特別きつい言い方だったとは思っていなかった。
必要な言葉だと、思っていた。
玄関は、朝の空気で少し冷えていた。
靴箱の上に置いた鍵を取り、ケイイチロウは靴を履いた。
もう出られる。
そう思いながら、ドアノブに手をかける。
後ろで、音がした。
靴を履こうとして、少しだけ動きが止まる背中の気配だった。
まだ、か。
待っているつもりだった。
でも、時計は見ていないのに、胸の奥が先に動いてしまう。
「……早くしなさい」
声は、思ったより低く出た。
振り返らなかった。
返事があったかどうかは、覚えていない。
聞こうとも、しなかった。
ドアを開けて、一歩、外に出る。
そのまま行ってしまえばいいのに、なぜか少しだけ、足が止まった。
待つ理由は、あったはずだ。
それが何だったかは、思い出せなかった。
結局、振り返らずにドアを閉めた。
外は、いつもの朝だった。
門を出ると、視界の端に、小さな動きがあった。
塀の上に、猫がいる。
青みがかった灰色の毛。
丸まって、じっとしている。
鳴きもしない。
ただ、そこにいる。
視線だけが、こちらを見ているような気がした。
ケイイチロウは、そのまま歩き出す。
背中の後ろで、何が起きているかを確かめることもなく。
思い出すのは、昔のことだ。
玄関で立ち止まっていた、あの背中。
やればできるはずだ、と信じていた相手に向けて、迷いなく投げた言葉だった。
何がそんなに時間がかかるのか。
なぜそこで止まるのか。
当時の自分には、理解する余裕がなかった。
理解しようとする前に、言葉が出ていた。
返事は、なかった。
ただ、少しだけ動きが止まって、そのまま外に出ていった。
あれは、急がせる必要があったのか。
それとも、待つべきだったのか。
今でも、答えは出ていない。
事務所の静けさの中で、机の向こうの気配が動いた。
コーキが、いつの間にかそこにいた。
この事務所で働く、若い探偵だ。
短い報告。
余計な説明はない。
それで十分だった。
ケイイチロウは、何も言わなかった。
言葉にすると、形が決まってしまいそうだった。
再び、スマートフォンを見る。
未読の表示は、まだそのままだ。
「早くしなさい」
あの言葉は、必要だったのだろうか。
それとも、ただ急いでいただけだったのか。
見守るという言葉は、静かだ。
けれど、どこまでが見守りで、どこからが押しつけなのか。
境目は、いつも曖昧だ。
ケイイチロウは、画面に触れかけて、手を止めた。
しばらく、息を整える。
そして、今度は伏せずに、スマートフォンを机の上に置いた。
すぐに返事はしない。
だが、閉じたままにも、しなかった。
答えは、今日も出ていない。
それでも――
あの日のように、何も見ずに歩き去ることだけは、しなかった。
この言葉を、もう一度ゆっくり
考えてみる。
この物語の奥にある問いを、
思想章で静かに続けます。
