大人編・第8話
「わるくないのに」
朝から、ルリの姿が見えなかった。
事務所のドアを開けたとき、
いつもなら足元にあるはずの気配がない。
机の下も、棚の上も、窓際も静かだった。
「……珍しいな」
コーキはそう言って、スマートフォンを机に置いた。
忙しさに紛れて、そのまま忘れていたが、
夕方になっても戻ってこない。
仕事は一段落していた。
報告書も、連絡も、今日はここまででいい。
「探してくるか」
軽い調子で立ち上がる背中を見送りながら、
ケイイチロウは画面に視線を戻した。
キーボードを叩く音だけが、事務所に残る。
――探す。
その言葉が、どこかに引っかかった。
自分も昔、誰かを探したことがある。
理由ははっきりしている。
だが、きっかけは思い出そうとすると曖昧だった。
画面の文字が、一瞬だけ遠のく。
その夜、ケイイチロウは仕事を家に持ち帰っていた。
本当は、外で食事をする約束だった。
けれど、どうしても今日中に片づけなければならない案件があった。
「すまない。今日は無理だ」
そう言ったとき、相手は一度うなずいた。
仕方ない、という顔だった。
それで終わった、と思った。
書斎にこもり、パソコンに向かう。
時計を見る余裕もないまま、入力を続けていた。
そのとき、ドアが開いた。
ノックはなかった。
気配だけが、急に近づく。
だが、画面から目を離さなかった。
「今は、忙しい。後にしてくれ」
怒ってはいない。
責めてもいない。
ただ事実を告げただけだった。
返事はなかった。
ドアが閉まる音が、静かに響いた。
リビングのソファに、ひとり座っている。
テレビはついていない。
スマホも手に取らない。
テーブルの上には、
さっき淹れたばかりのコーヒーがある。
湯気は、もう立っていなかった。
視線を落としたまま、動かない。
考えているのか、
考えるのをやめているのか、
分からない。
目尻が、少しだけ熱くなる。
理由を言葉にする前に、
涙が先ににじんだ。
慌てて袖で拭い、
丸めたティッシュを一枚、テーブルの脇に置いた。
それ以上は、何もしなかった。
しばらくして、ケイイチロウは書斎を出た。
リビングには、誰もいなかった。
テーブルの上に、冷めたコーヒー。
その横に、
小さく丸められたティッシュが一枚。
足が止まる。
――泣いていたのか。
そう考えるのは、自然だった。
怒鳴ってはいない。
説明もした。
拒絶したつもりもない。
それでも、ここにティッシュがある。
探偵としてなら、
ここで原因をひとつに絞る。
約束を守らなかったから。
忙しいと言ったから。
拒まれたと感じたから。
どれかに丸をつけて、
整理する。
けれど――
あの夜の涙は、
そのどれか一つだけだったのだろうか。
分かっているのに寂しかったのかもしれない。
仕方ないと理解していたのに、
それでも期待していたのかもしれない。
「わるくないのに」
そんな言葉が、胸の奥で揺れる。
理由を一つにすれば、
きっと安心できる。
だが、それで本当に届くのかは分からない。
家の中を探した。
どこにもいない。
玄関を見ると、靴が一足足りなかった。
外に出る。
街はもう暗い。
行き先の見当はつかない。
ただ、
探さなければならない、という感覚だけが残った。
事務所に、静けさが戻る。
ケイイチロウは、画面の前で手を止めた。
あのとき、どこへ行ったのだったか。
悪かった理由なら、説明できる。
約束を守れなかった。
仕事を優先した。
だが、
涙が出た理由は、そこには収まらない。
理由の分からない涙。
理由をひとつにできないまま、
残る距離。
ケイイチロウは立ち上がった。
仕事は、もう終わっている。
今度は、探しに行く番だった。
事務所の灯りを消し、外に出る。
夕方の風が、少し冷たい。
あのとき――
どこへ行ったのだったか。
その答えを、まだ知らないまま。
理由を一つにできない涙が、
心のどこかに残る夜がある。
「わるくないのに」という感覚を、
思想章でゆっくりほどきます。

