大人編・第6話
「見つからない」
朝の探偵事務所は、まだ本格的に動き出す前の静けさが残っていた。
古いビルの廊下には人の気配がなく、窓から入る光だけが、机の上の紙の白さを浮かび上がらせている。
ケイイチロウは、書類の束をそろえながら、視線の端でコーキの様子を見ていた。
コーキはスマートフォンを片手に、立ったまま何かを確認している。
画面に集中しているのか、声をかけても気づきそうにない。
指だけが忙しく動き、目だけがそこに貼りついている。
「……昨日頼んだ買い物、行ってもらえるか」
そう言うと、コーキは一瞬だけ動きを止めて、
「あ、はい」
と短く答えた。
返事は速い。
けれど、どこか急いでいる様子で、靴を履き、ドアに手を伸ばす。
そのときだった。
ルリが、机の上に軽く飛び乗った。
前足が書類の端にかかり、紙の束がずれて、下から封筒が顔を出した。
ケイイチロウは、その封筒を見て、小さく息を吐いた。
――ああ。
同じだ。
声に出すほどでもないのに、記憶が静かにずれていく。
封筒ひとつで、別の朝が引き出される。
あれは、学校の参考書の集金があった日のことだった。
金額は大きくない。
けれど、忘れてはいけないものだった。
前日の夜、封筒を手渡した。
「明日、これ出すんだぞ。カバンに入れておけ」
息子は、うなずいた。
表情はいつも通りで、反抗もない。
わかった、と言う代わりに、ただ頷く――それだけで、こちらは安心してしまう。
翌朝。
出かける前に、念のため聞いた。
「集金の金、入れたか」
「入れた」
短く、迷いのない返事だった。
確かめる必要がないような言い方だった。
学校から連絡が来たのは、その日の夕方だった。
「集金が出ていません」
ケイイチロウは、家に戻るなり息子に聞いた。
「集金、どうした」
「入れた」
返事は変わらない。
自信があるようにも見えた。
「最後に置いたのはどこだ」
「……カバン」
それ以上は出てこない。
考えているのか、言葉を探しているのか、ただ止まっているのか。
見分けがつかなかった。
ケイイチロウは、カバンを開けた。
上から、ざっと見る。ノート、筆箱、プリント。
ない。
「ほら、ないだろ」
息子は黙ったまま、視線を落とした。
反論もしない。泣きもしない。
ただ、そこにいる。
そのとき、ふと気づいた。
カバンの底に、妙な膨らみがある。
全部を出してみる。
教科書を一冊ずつめくる。
数学の教科書の間に、封筒が挟まっていた。
「あった」
そう言うと、息子は一瞬だけ目を上げた。
そして、ほんのわずかに口元が動いた。
「……ほらな。入れてたじゃないか」
責めるつもりはなかった。
本当に、なかった。
ただ、言葉が少し軽かったかもしれない。
「次からは、入れたって言うなら、ちゃんと確認しろ」
それで、その場は終わった。
終わったことにして、片づけた。
だが今思えば、あの「入れた」は嘘ではなかった。
入れていた。
ただ――取り出せる状態ではなかっただけだ。
入れたことと、出せることは、同じではない。
その当たり前が、あのときは見えていなかった。
事務所の記憶に戻る。
コーキが慌ただしく戻ってきたのは、すぐだった。
ドアが開く音がして、足音が近づく。
「……あれ?」
机の上を見回し、引き出しを開ける。
書類をめくり、紙を動かし、ペン立てまでひっくり返す。
焦った手つきで、机の上が少しずつ崩れていく。
「……すみません、さっきの」
何が、とは言わない。
言わないまま、探し続けている。
ケイイチロウは、黙って封筒を差し出した。
机の上で、さっきルリがずらした場所から拾い上げたものだ。
コーキは一瞬目を丸くして、
「ありがとうございます」
とだけ言った。
それ以上の説明はなく、封筒を受け取ると、そのまま慌ただしく事務所を出ていった。
さっきより少し速い足取りで。
静けさが戻る。
ルリはソファの上で丸くなっていた。
さっきまでの騒ぎが嘘のように、目を細めている。
何もしていない顔だ。
ただそこにいるだけの顔をしている。
机の上には、途中まで目を通した書類。
続きが残っている。
ここまで読んだ、という印だけが、紙の端に残っている。
探すとき。
全部出して、ひっくり返して、ようやく見つかる。
息子に言った言葉が、ふと頭に浮かぶ。
「探すときは、全部出して調べろ」
それは正しかったのか。
それとも、自分のやり方を押しつけただけだったのか。
なぜ、表面だけを見て終わったと思ってしまうのか。
なぜ、入れたのに出せなくなるのか。
忘れたわけではない。
やっていないわけでもない。
ただ――保持できなかっただけなのかもしれない。
見つかれば、先に進める。
けれど、見つかるまでが長い日がある。
全部出す、その工程に辿り着けない日がある。
探しているのに、探せない。
整理しているのに、余計に散らかる。
それを「だらしない」と呼ぶのか、
それとも「限界」と呼ぶのか。
まだ、決められない。
ケイイチロウは書類の束を、もう一度そろえ直した。
角を合わせると、少しだけ安心する。
整えることで、理解に近づける気がする。
でも、整えたところで、答えは出ない。
ルリが小さく欠伸をして、丸くなったまま、また目を閉じた。
起きるでもなく、逃げるでもなく、ただ、そこにいる。
ケイイチロウは、封筒のあった場所を見つめたまま、
次に何を見るべきかだけを、考え直していた。
答えを出すのは、まだ先でいい。
――そう思える夜が、少しずつ増えてきている気がした。
探しているのに、
たどり着けない日がある。
「見つからない」という状態の奥を、
思想章で確かめます。

