【手放せない】スマホの向こうにある本当の理由〈大人編 第5話〉

大人編

大人編・第5話

「手放せない」

夜の探偵事務所は、昼間よりも静かだった。
古いビルの外では商店街の明かりが落ち、遠くで車の音が一つ、二つ、通り過ぎるだけだ。

ケイイチロウは、部屋の奥に目を向けた。
ソファのあたりで、コーキがスマートフォンを触っている。
画面を見つめ、親指だけが小さく動いている。

机の上には、未整理の書類が残っている。
ペンも、そのままだ。
仕事をしていない――
そう見えた。

声をかけようか、と一瞬考える。
そのときだった。

ルリが、不意に動いた。
床を蹴り、軽い音を立ててコーキに飛びつく。

驚いた拍子に、スマートフォンが手から滑り落ちた。
乾いた音がして、床に当たる。
画面は暗いままだった。

「あ……」

コーキは短く声を出す。
拾い上げ、電源を押す。
反応はない。

少しだけ間があく。
残念そうでも、怒っているようでもない顔で、
コーキは息を吐いた。

「……あ、今やることあったんだった」

そう言って、スマートフォンを机の端に置く。
壊れたかどうかを、もう一度確かめることもなく。

コーキは立ち上がり、書類の前に戻った。
ペンを取り、何事もなかったように続きを書き始める。

ケイイチロウは、その背中を見ていた。

手放せなかったはずのものを、
人は、あっさり置くことがある。
区切りが来れば。

画面を見ているあいだだけ、
何も決めなくてよかったのかもしれない。

そう思った瞬間、
胸の奥に、古い夜の空気がよみがえった。


あの頃、息子はまだ小さかった。

ソファに座り、スマートフォンを握っていた。
画面の光が、顔を照らしている。
動画は次々と流れ続ける。

笑っているわけでもない。
夢中になっているようにも見えない。
ただ、見ている。

机の上には、手をつけられていない宿題。
ランドセルは、開けられないまま床に置かれている。

「先にやることがあるだろう」

それは正しい順番だった。

「……あとで」

小さな声が返る。
反抗ではない。
声は弱く、視線は上がらない。
怒られるとわかっている子の顔だった。

怠けているわけではない。
けれど、動かない。

あのときの自分は、
“やらない理由”を探していた。

甘えているのだと、
優先順位がわかっていないのだと。
そう決めれば、話は早い。

だが――

やらなかったのではなく、
始められなかった夜だったのかもしれない。

動画の光に顔を向けたまま、
息子は固まっていた。

叱られる予感と、
やるべきことの重さと、
どこから手をつければいいのかわからない焦りと。

それらを抱えたまま、
動けなくなっていたのではないか。

その夜の自分は、そこまで考えなかった。

「聞いているのか」

そう言いかけて、言い切った。
そして、さらに固まらせた。


探偵事務所の静けさが戻る。

コーキは机に向かい、書類を進めている。
スマートフォンは、机の端に置かれたままだ。

止まっている時間と、
怠けている時間は、
同じに見えることがある。

あの夜、
自分は急ぎすぎていなかっただろうか。

答えは出ない。

そのとき、ルリが小さくあくびをした。

ソファの端に体を伸ばし、
何もなかったように横になる。
目を細め、すぐに動かなくなる。

急ぐものは、何もないという顔だった。

ケイイチロウは、その姿を見ている。

問いは、まだ形にならない。
けれど、
今夜は、急がなくていい気がした。