大人編・第3話
「どうして?」
夜の事務所は、静かだった。
書類の紙が重なる音と、時計の針の音だけが残っている。
机の上のスマートフォンが震えた。
依頼者からの短い通知。
「報告書がまだ届いていませんがどうなってますか。確認してください」
“確認してください”という言葉が、胸に引っかかった。
——確認することは、嫌いじゃない。
その思考が、ゆっくりと過去へ滑っていく。
ケイイチロウは、机の上のスマートフォンを見た。
画面に表示された通知は短い。
学校からだった。
「宿題がまだ出ていないようです。確認をお願いします」
確認することは、嫌いじゃない。
むしろ、確認しておけば防げることが多い。
だから、その夜も確認した。
「宿題できたか」
「持ち物はそろってるか」
宿題はできた、と言われた。
だから、念のために見た。
最後が空いていた。
そして――
「ちゃんと最後までやらないと意味がない」と言った。
その続きが、今、ここへ繋がっている。
ケイイチロウは立ち上がった。
帰る時間は過ぎていたが、足は自然に動いた。
この連絡は、先に片づけておかなければならない。
そう思った。
家に着くころには、街の明かりは落ち着いていた。
玄関の鍵を回す音が、必要以上に大きく聞こえる。
リビングに灯りがついていた。
息子は机に向かっていなかった。
テレビでもない。
何かをしている気配もない。
ケイイチロウは、息子の顔を見た。
そこに“何かが起きている”表情は読み取れなかった。
いつもと同じように見えた。
だから余計に、言葉が先に出た。
「学校から連絡が来た。宿題、出てないって」
息子は一度だけ目を上げた。
驚いた、というより、確認された、という顔だった。
そして、淡々と答える。
「ちゃんとやった」
その言い方が、ケイイチロウの胸の奥に刺さった。
「……やった、って。出してないって言われてる」
「出した」
短い。
理由はついてこない。
「どこにある」
息子は、少しだけ視線をそらした。
「最後、残ってたよな」
沈黙が続く。
「ちゃんと最後までやらないと、意味がないって言っただろ」
「“やった”って言うなら、出せるだろ。
出してないって連絡が来てるのに、なんで“やった”なんだ」
その瞬間だった。
息子の呼吸が一度、詰まる。
そして――涙が落ちた。
声は出ない。
ただ、涙だけが、静かにこぼれる。
「……どうして泣く?」
息子は、首を振った。
小さく。それだけだった。
机の上には、何もない。
“途中までやった痕跡”すら残っていない。
最後が残っていた。
自分は「意味がない」と言った。
あの瞬間、息子の手は止まったのではないか。
宿題が未提出になった理由は、
“忘れた”だけではないのかもしれない。
“怒られた”と思った瞬間に、
続きをやる道が閉じたのかもしれない。
「……先生に確認する。ちゃんとやったなら、それでいい」
それでも、自分は言葉を重ねた。
それで終わったと、思っていた。
夜の事務所に、時計の音が戻ってくる。
途中の行も、空欄も、そのまま机の上にある。
その“途中”という形に、
ずっと昔の息子の背中が重なる。
「最後までやりなさい」
確認はした。
理由も説明できる。
だが――
“なぜ止まったのか”は、一度も聞けていなかったのかもしれない。
怒られた日の理由は、
宿題が出ていなかったことだけではない。
止まった瞬間を、止まったままにしてしまったこと。
スマートフォンを伏せずに、机に置く。
今夜は、答えを出すより先に、問いを残すことにした。
理由は、あの夜にはわからなかった。
それで終わったと、思っていた。
——終わっていなかったのだと、まだ知らなかった。
この言葉を、もう一度ゆっくり
考えてみる。
この物語の奥にある問いを、
思想章で静かに続けます。

